#1:序章(一)

 ロゴス暦二九四年 秋——
 一人の男が、死にかけていた。

 そこは、とある森の中。
 毛布にくるまって横たわる男のかたわらで、十歳くらいの少年が心配そうに男の顔をのぞき込んでいる。
「——ジン」
 男は少年……ジンの名前を呼びつつゆっくりと身体を起こし、そして軽く咳き込んだ。
 良くない感じの空咳が、力なく空気を振るわせる。
「だいじょうぶ、父さん?」
 男の背中をさするジン。それには答えず、男はジンの顔をまっすぐに見つめた。
「ジン、お前に言っておくことが三つある」
 そう言うと、男は深く息を吸い……肺にはわずかな量の空気しか取り込むことができなかったが……ゆっくりとジンの顔を見て話し始めた。
「一つは、お前に渡したペンダント。これは絶対に外してはいけない」
 その言葉を聴いて、ジンは反射的に胸元のペンダントを手に取った。その様子を見ながら、男は弱々しくかすれた……だが、迷いのない声で言う。
「少なくとも、ペンダントをしている意味が分るまでは外すな」
 はい、とジンは頷く。まだ幼いが、意志の強そうな光が瞳に宿っている。
「もう一つ。お前には旅の仕方を教えた」
 長い旅路を思いだすかのように、男を軽く目をつむる。
「しかし、獣やモンスターに襲われたら子供のお前にはどうにもできない」
 十歳足らずの子供が一人旅できるほど、この世界の旅路は穏やかではない。ジンも、そのことは身にしみて理解している。
「ここは良い土地だ。気候も穏やかで食べ物にも困らない」
 黙って聞くジン。その幼い顔を、細い腕を見ながら男は語る。
「だから……お前が一人前になるまでは、ここを動くな。ここで暮らせ」
 その言葉に、ジンは父の目を見ながら深く頷く。
 そして、男は一拍間を置き、何かに苦悩しているような重いため息をついた。
「最後に、イリオン……帝都には絶対に近づくな」
 父の口から出た意外な言葉に、ジンは目を丸くする。
 イリオンはこの森から一ヶ月〜二ヶ月くらいかかるところにある——子供の足では、遙か彼方と言って良い距離である。大陸最大の都市であり、聖イリオン帝国の首都でもあるイリオンには一攫千金、立身出世……様々な想いを抱いて人々が集うと言われている。
 辺境に住む人間ならば、一度は行ってみたいと思う街だ。たとえ子供のジンといえども、まったくイリオンに興味がないと言えば嘘になる。
(なんで、イリオンだけダメなんだろう?)
 『一人前になるまで旅に出るな』は、よく理解できた。しかし、一人前になって旅に出るであろうジンに『イリオンだけ行くな』と言う理由がどうしてもわからない。
 そんな疑問を表情に出したジンに、男は少し考えた後で付け足した。
「これも、その理由が分かるまでは帝都《イリオン》に行ってはいけない」
 今まで、父が間違ったことをジンに言ったことはなかった。父に従ってきたからこそ、この過酷な旅から旅の毎日を生き延びることができた。
(——よくわからないけど、きっと深いわけがあるんだろう)
 それがわかる日がいつか自分にやってくるはずだと納得して、ジンは男の顔を見ながら大きく頷いてみせた。
「わかったよ、父さん」
 息子の返答を聞いて満足げに頷いた男は、しかし、寂しげな表情でジンの頭に手を乗せた。
「すまんな、ジン」
 あれほど力強かった手……かつて職人だったという父の手。
「お前を連れて、生まれた里から出てきたのに……」
 今では、まるで肉がついていないようにか細く。
「俺だけ、先に逝くことになるとはな……」
 それでも、なお変わらぬあたたかさで、男は両手で包みこむようにジンの頬をなでた。
「父さん……」
 そして、その手を握りかえしたジンを見て、男は寸暇の迷いを瞳に浮かべた。
 その表情には明らかな逡巡が見て取れたが、しばらくして男はふうと息を吐く。
「やはり……最後に、これだけは言っておこう」
 軽く息を吸い込んで。男はゆっくりと話しだした。

「ジン……お前には、双子の妹がいる」

 それはジンにとって青天の霹靂とも言うべき告白で、くりっとした瞳を丸く見開き、ただ絶句して父の顔を呆然と眺めることしかできなかった。
(だって……家族は父さんと僕の二人きりって……ずうっと言っていたのに)
 頭の中に、色々な想いが駆け巡る——ジンは混乱をストレートに表情に浮かべた。
 そして、その反応は予想していたのだろうか……混乱するジンに、男はそのまま話し続ける。
「母さんと二人で……今でも、故郷で暮らしているはずだ」
 赤子の頃に、ジンは父に連れられて生まれ故郷をあとにした。故郷がどこにあるのかも、何という名前の土地なのかもわからない。
 母親の名も知らず——まして、妹がいたことなんて考えたこともなかった。
 あまりの予想外の父の告白を受け混乱しているジンを、男は寂しげな表情を浮かべて見つめた。そして、困惑するジンを慰めるように優しい口調で男は言う。
「もし、会うことがあったら……」
 そして、唐突に咳き込む男。
 ゴホンとかエホンとかではない。まるでブリキの一斗缶を潰すような甲高い……明らかに、普通ではない咳。
 ジンは、泣きそうな顔で慌てて父の背中をさすった。
「父さん、横になって……もう、しゃべらないで!」
 その言葉に、身を起こしたまま、男は軽く首を横に振る。
 やがて咳が収まり、浅く早い息をつきながら男は言った。
「もし、二人に会うことがあったら……俺は死んだとだけ言っておいてくれ」
 泣きそうな表情で。ジンは震えながら差し出される父の手を両手で取った。
 そんなジンの手をしっかりと握り返して、男は息子の顔を静かに見つめた。
「——黙っていて、すまなかった」
 その言葉を——父の告白とも懺悔ともとれる言葉を聞いて、ジンは黙って首を数回横に振る。あきらめと悲しみが混ざったような、そんな表情だった。
 そして、言うべきことを言い終えたからだろうか。ジンの手を借り、横になりながら苦痛の表情の中に安堵の色を浮かべ、男はジンに柔らかく微笑んだ。

「達者で暮らせよ、ジン」

 それが、遺言となった。
 その後、二度と目を覚まさぬまま、数日後に男は息を引き取った。

公開 : (2515文字)

ページトップ