#138:ダフニ近郊、山中(五)

「ネメア」
「はい!」
 スフィンクスは樹の影に隠れていたネメアに覚悟を決めた口調で言った。
「もっと下がっていなさい」
 ネメアはスフィンクスの攻撃力を……本気になった時の実力を知っていた。
 ……胴回りよりも太い樹の幹をオーラの矢でやすやすと貫通したり、その拳の一撃でへし折るくらい造作も無いことだと言うことを。
(こんなところにいては——わたしが邪魔で本気を出すことができない!)
 ネメアは飛び退る勢いで、闘う二人から距離を取るべく後ろに下がった。

「——うわっ!?」
「きゃ!?」

 その瞬間、ネメアが下がったあたりの茂みから、勢い良くジンが飛び出してきた。
 普段誰も居ないような獣道に人がいたことに仰天しつつ、衝突を避けるべくサンダルの底を滑らせる勢いで急制動をかけたジンだったが、さすがに間に合わず。
 スライディングしながらネメアの足をすくった感じで、ふたりとも転んでしまった。
「ご、ごめん……大丈夫?」
「あ、はい……すみません!」
 かろうじて、転ぶときにネメアを受け止めることに成功したジンだったが、見方を変えるとジンがネメアの下敷きになっているということに他ならず、ネメアは大いに恐縮しながらその場から跳ね起きた。
 こっちこそごめんねとか言いながら、服についた砂埃を払いながら立ち上がったジンだったが、顔を上げるや驚きに大きく目を見開くこととなった。
 いるはずのない人物が、目の前にいたからだ。
 そして、それはアークも同様であったのだろう。
 茂みから飛び出してきたものを警戒するために防御の構えをとったまま、こちらも負けじと目を見開いた。

「アーク!?」
「……ジンか!?」

 それは、全く予測していなかった状況であった。
 驚愕の表情で立ち尽くすアークを、ジンも呆然と見ることしかできなかった。
 予測していなかったのはスフィンクスも同様で、何事が起こっているのかサッパリ把握できぬまま、ただ尋常ではない事態が生じているのだろうとだけは認識しつつ、どうしたらよいものかわからぬままに困惑の表情を浮かべて佇んでいた。
 そして。
 オーラをまとったままアークと対峙している仮面の戦士がグラブをしていないことにジンは気が付いた。

「……ミュートス狩り?」
 責めるでもなく、ただすこし寂しげな口調と表情で、ジンはアークに尋ねる。
 ジンから見ても、すぐに仮面の戦士がミュートスだということは見て取れた。
 そのジンの質問に『違う』と即答したかったが、今の自分の立場が『帝国に仇なすミュートスを捕える』ために拳を振るっていることに気が付き、アークはただ言葉を失った。
 彼には珍しく泳がせた目線の先に、ジンが巻いている包帯が写った。

『怪我してるのがいるとかでな、たまに女の子が山の中で摘んできた薬草を売って、食べ物買って帰って行ってるよ』

 酒場の親爺の言葉を思い出し、アークはジンに向かってまっすぐ向き直った。
「ジン……まだミュートスの巫女と一緒にいるのか?」
 その問いに対して、ジンは少しの躊躇もせずに深く頷いた。
「うん。僕は……テルプシコルを守るために旅をしているんだ」
 その答えを予測していたのだろう。
 アークはそうか、と口の中で返事して頷く。
 ただ、スフィンクスとネメアはその言葉を聞いて、驚きの表情を浮かべていた。
 そして、喜びなのか興奮なのかわからないがスフィンクスの頬に朱がさし、ネメアはただただ呆然と言う具合でその場に立ち尽くす。
 その様子に一瞥をくれたアークだったが、次の瞬間に自分がプレゼントしたグローブをジンがしていることに気がついて、少し寂しげにジンの顔を見た。
「ジン……お前はロゴス使いだ。ミュートスではない」
 ぎゅっと。
 無意識のうちに、ジンは拳を握りしめていた。

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