#86:アークトゥルス邸 居間(一)

 ある程度の年月を経た石積みの建物は、時として実に柔らかい暖かみを醸し出すことがある。
 積み上げられた石がむき出しの大広間の奥にある、暖炉の横の揺り椅子に女性が座っていた。
 年の頃は四十代始めか半ばごろだろうか、いかにも上品な良家の女性といった風情である。
 アークはその女性を驚かせないように静かに、優しげな口調で声をかけた。
「ただいま戻りました」
 驚かせないように、と言うアークの気遣いであったが、それは徒労に終わった模様だった。
 アークの声を聞いて目を見開いた女性は、次の瞬間に喜びで少し目を潤ませた。
「あぁ、アーク! 元気そうで」
「はい」
 返事をしながら、アークは普段なかなか見せることが無い種類の柔らかい笑顔を見せた。
 この女性の名はカタリナ。
 アークの母である。
「座ったままで許しておくれ」
 カタリナは足が不自由であるのか、揺り椅子に座ったまま少し沈んだ表情になったが、それもつかの間。目の前に立つ息子を見て、嬉しそうに微笑んだ。
「腕によりをかけて料理を作らなくてはいけないね。あなたの好きなものを作るから、まずはゆっくりお休みなさい」
「はい。では、お言葉に甘えて昼寝をさせて貰います」
「ふふふ……レクサ、台所に連れて行ってくれる?」
「はい、奥様」
 主人の明るい笑顔を久しぶりに見たのだろう、満面の笑みでレクサはカタリナの横に立つ。
 そして、揺り椅子の前に車いすを寄せ、レクサは軽々とカタリナを車いすへと運んだ。
「茄子はまだあったかしら?」
「昨日、市場から良いものを入れたばかりですよ、奥様」
「そう。では、香草は……」
「ああ、香草が古くなっているかもしれません。あと、羊肉の新鮮なものもいりますね。ひとっ走り買ってきます」
 そんな会話をしながら台所の方へと消えて行く二人をなんとなしに見送って、アークは中庭へと向かったのだった。

 そして、木陰で軽く昼寝をし、起きた後で湯浴みをしてすっかり日も暮れた頃。
 食事の支度ができあがったと、レクサがアークを呼びに来た。
 軽く礼を述べてからアークは広間に向かう。
 部屋の扉を開けて少し歩くとなんとも言えない良い香りが鼻腔をくすぐりはじめて、アークの表情が思わず緩んでくる。
「アーク、ゆっくり出来たかしら?」
「はい、おかげさまで」
 広間に入ると、大ぶりのダイニングテーブルの上には既に湯気を立てた料理が並んでいた。
 トマトサラダに、チキンのスブラキ——鶏肉を串に刺して焼いたもの——と野菜をピタパンに挟んだもの。
 そして、オーブンから出したばかりのムサカ——少し大きめのココットにオリーブ・オイルで揚げたナス。焼いたジャガイモ、そしてラムの挽肉を入れ、その上からたっぷりとベシャメルソースをかけてオーブンで焼き上げた、グラタンに似た食べ物——が美味しそうな湯気を立てている。
 これらは皆、典型的なイリオンの家庭料理であり、母の宣言通りにアークの好物だらけな食卓であった。
「これはすごい」
「ふふふ、さあ熱いうちに食べましょう」
 母とアークはウゾで乾杯をしてから食事をはじめた。

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