#87:アークトゥルス邸 居間(二)

 キュウリとトマトを角切りにした上から、フェタチーズとオリーブオイルをかけたトマトサラダにアークは手を付ける。
 塊のまま乗っているフェターチーズを崩しながら食べるのがカタリナ流で、子供の頃からアークが好んで食べていた一品だった。
(やはり、うまいな……)
 上機嫌にムサカにもフォークをつけるアーク。
 ベシャメルソースの下にある野菜や挽肉には意外とソースが絡んでおらず、そのまま食べるのも、ソースを絡めて食べるのも楽しめる。
 ソース自体も新鮮な牛乳で作ったと見えて実に美味しく、あまりたくさん絡めるとしつこくなりそうなベシャメルソースには隠し味でマスティハの樹液を細かく砕き入れたものが入っており、後を引くがくどくない独特の風味を作り出している。また、手で細かくちぎって上に乗せた香草はラム挽肉の臭いをうまい具合に中和していた。
 重いようでいて、野菜がメインのカタリナのムサカはアークの疲れた身体にとても優しかった。
「今日のムサカはどうかしら、アーク?」
「美味しいですよ。久しぶりに母上のムサカを食べました」
「たまたま良いナスが入ったので、よかった」
 少し、ほっとした表情になる母親に笑顔を見せて、アークはムサカの横にある大皿からチキンギロのピタサンドを掴み、勢いよくかぶりついた。ジューシーで香ばしい鶏肉とオリーブオイルでマリネされたトマトとのマッチングの妙にアークは思わず目を輝かせる。
「うん、美味しい」
「アークは昔から、スブラキが好きでしたからね。たくさんありますよ」
 チキンはオリーブオイルとオレガノ、胡椒、ニンニク、レモン汁などを揉み込んで味をつけたものを香ばしく焼いてあり。それにザジキ——ヨーグルトにキュウリを細かく切ったものとニンニクとオリーブオイルを混ぜたもの——をソースとしてピタパンに挟んであった。ほどよい酸味と後を引く風味は絶妙の風味であった。
 アークが串焼き——スブラキが好きだと言うのは、母親のスブラキが絶品であるのも一因かもしれない。
 だが……少なくとも母は下味はつけるし、ソースも用意するしでアークの串焼きとはまるで違うものと言っていい。
 ——せめて、塩胡椒くらい振ってほしい。
 そんなジンの切なる想いはいつも無視されていたわけだが、結局母親の絶品スブラキを食べるだけ食べて、アークはレシピに関してはまるで尋ねる気配もない。
 『少し多いかな……?』と思った程の料理をすっかり空にしてアークは満足げにフォークを置いたが、きっとこれからもアークの料理はアレなのだろう。
 母親が料理がうまいからと言って、子供の料理がマトモなわけではないらしい。
 難しいものである。

 健啖っぷりを発揮したアークが食べ続け、その様子をきわめて上機嫌にカタリナが見る。
 そんな食事が終わり、カタリナは食後のコーヒーを用意し始めた。
「カルダモンを使う、アーク?」
「いただきましょう」
 アークは母親からコーヒーを受け取って、バクラヴァ——フィロ生地の間に刻んだクルミやナッツ類をはさみこんで、何層にも積み上げたものを焼き上げた甘いペストリーである——を崩れないように気をつけながらフォークで取る。
 甘いペストリーにレモンを効かせたこれまた甘いシロップをかけているため、尋常ではない甘さになっている。だが、イリオンではこれが普通なのか、当たり前のようにぱくついている。
「バクラヴァなんて久しぶりに作ったわ。崩れたりしてないかしら?」
「美味しいですよ。子供の頃を思い出します」
 言いながらコーヒーに口を付けるアークを、カタリナは嬉しそうに見る。
「ふふ……子供の頃は、コーヒーに砂糖をたっぷり入れなければ飲めなかったのですものね?あんなに砂糖を入れてしまっては、バクラヴァに味がしないのではと心配したものですよ」
 それ以前に、甘さ以外の味覚がなくなりはしないかという疑問も浮かびもしつつ、母子の平和なお茶の時間がのどかに流れていった。

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