#94:隠れ里(五)

 たとえ、谷の向こうに離れていても。
 たとえ、仮面を被っていても。
 たとえ、記憶の中の服装と違っていても。
 ひと目、姿を見ただけで確信できた。

(——オレステス!)

 目を見開き、口も開けて驚愕の表情になった。
 谷の向こうへ、声をかけようとするが——声が出ない。
 声をかけるどころか、反射的に大木の幹に身を隠した。
 何故、身を隠すのか自分でも分からないままに。
 ——もしかしたら、子供になった我が身を恥じたのだろうか?
 ただ無言のまま、テルプシコルはおそるおそる谷の向こうをうかがった。

 そして、その谷の向こう。
 そんなテルプシコルには気がついていない——スフィンクスは仮面の奥の目を、すうっと細めて。
「……生き残りはいませんね?」
 と、背後に控えるネメアの方を振り向いて尋ねた。
 訪ねられたネメアは、少し沈黙を作った後で静かに頷く。
「はい」
 静かな、しかし迷いのない少女の返答を聞き、眉根を寄せて険しい表情になる。
 ややあって、谷の逆側にある細い小道の方を向いて口を開く。
「では、行きましょう」
 とネメアに告げ、スフィンクスは足下に置いた荷物を手に取る。
 そして、フードを深々とかぶって表情の伺えぬネメアに向き直り
「長居すると危険です」
 と言うが早いか、まるでこの場にいたくないかのように足早にスフィンクスはネメアと共に森の中へと消えていった。
 谷向こうも深い森になっており、二人の姿はすぐに見えなくなる。

 その背中を、テルプシコルは無言のまま渓谷越しに見送った。
 三百年前の——つい、先日に聞いた声が脳裏に響く。

『テルプシコル、愛しているよ』

 暗闇の中で聞いたその声は、テルプシコルの心にオレステスの面影と共に刻まれている。
 テルプシコルは小さくなった自分の手を、じっと見つめる。
(確かに、三百年もの歳月が流れたようだ)
 神殿の中で目覚めてから起こった出来事や、聞いた話。
 歳月の流れを否定するものは何もなく、むしろ肯定する材料ばかりだった。
(ただ……)
 ぐっ、と。小さい拳を握りしめ。
 テルプシコルは、空を仰ぎ見た。
(私が生きているのだから——オレステスも生きていて不思議はないではないか!)
 目をつぶると……いや、その必要もなくいつでも思い出せるオレステスの面影。
 テルプシコルの耳に蘇るのは、暗闇の中で聞いた彼の言葉。

『君を命に代えても守る』

 そんな決意に満ちたオレステスの言葉を、テルプシコルは信じた。
(——あの日に比べれば……)
 そして、今も——三百年経った今も信じることができるかもしれない。
(イリオンが落とされた、あの日に比べれば、何のことはあらん!)
 テルプシコルは、木の陰から歩み出た。
 断崖の向こう……『オレステス』の消えた森を見て、心中で誓いを立てる。
(他のムーサイ達……そして、オレステスと生きて再びまみえても胸を張れるように、私はやるべきことをやらねばならん)
 ぱん!
 小さな手のひらで、顔を挟むように叩いて気合いを入れる。
「落ち込んでいるヒマなど無いぞ、テルプシコル!」
 自分に言い聞かせるように、宣言するようにそう言って。
 来るときとは打って変わって、力強い歩みで。
 テルプシコルは皆の元へと戻って行ったのだった。

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